呉智英さんスキスキ

先週の「こころの深層」。なんか「おまえの母ちゃんでべそ」がなぜ悪口になるのか、のひとつの答えとして呉智英の考えを紹介していたのでピンときて感想にそれを書いたら7点(満点)をゲット。

ていうか、好きな文章家を上げろといわれたらまず呉智英をあげるほど私は彼が好きだ。初めて彼の文章を読んだのは朝日新聞に載っていたコラムなのだけれども、あれを読んだときの悟りを開きかけたような身震いは今でも忘れない。でも覚えない。

彼は『まれに見るバカ女』という本に柳美里が「慙愧」の使い方を間違えたことを叩く文章をよせている。これがまぁすごい。

判決後の柳美里のコメントにおかしな言葉があるのだ。

「日本における文芸作品の可能性はもとより、表現の自由を著しく制限するものと言わざるをえず、慙愧にたえません」(『朝日新聞』九月二十八日付/他紙もほぼ同)

「慙愧」ってそういうふうに使うか。「慙愧」とは二文字とも「恥じる」と読み、自らを省みて恥ずかしいという意味である。期待を担うオリンピック選手が惨敗したときなど、慙愧の念に堪えないなどと言う。音感が「残念」に似ているけれど、そんな意味はまったくない。最高裁判決が表現の自由を制限したところで、小説家の柳美里が恥じる必要はないではないか。それよりも、芥川賞作家が「残念」のつもりで「慙愧」と口走ることのほうが、よっぽど慙愧に堪えないだろう。

彼女のサイン会が中止になったときに「卑屈な行為に屈しない」と言ったらしいことについて

言っているはずである、という遠まわしな表現をしたのは、この原稿を書くため新聞の縮刷版で確認してみると、「卑劣な行為に屈しない」と出ていたからである。私は、事件当時、新聞を読んで、サイン会中止そのものより、芥川賞作家のあまりの文盲ぶりに驚いたので、記憶に残っていたのだ。芥川賞作家が「卑劣」と「卑屈」を間違えたので、縮刷版では修正させたとすれば卑劣な行為だし、大新聞社が、弱者という権力を持つ作家の意を迎えんとして修正したとすれば卑屈な行為である。

というふうに使うのが、正しい「卑屈」と「卑劣」の使い方である。もっとも、縮刷版が正しく、私が記憶違いでこんなことを書いたとすれば、慙愧に堪えない。撤回謝罪する。私は卑屈なことは好まないからである。

これ、これですよ。大作家様は、作家というコトバを扱うプロなのだから瑣末な間違いにもぜひ注意していただきたいという愛情があふれんばかりにいやらしさを放つ美しい皮肉の連鎖がむわむわと漂ってくるこういうの。

シメまでこの勢いが続く。

名前の、朝鮮語読みならざる朝鮮語読みを、弱者という権力の名のもとに強制するのは、卑劣。それに唯々諾々と従うことが良識だと思っている言論人は、卑屈。この異常現象は、表現の自由を制限するものと言わざるをえず、私は残念でならない。

この、「慙愧」、「残念」、「卑屈」、「卑劣」という4つのキーワードがおりなす、まったりとしつつ、こってりとしつつ、しつこくなく、くせのない絶妙なハーモニー。これこれ。プロのコラムニストはさすが良いオチをつけるなぁとただただ感心する。私もこういう文章を書けるようになりたいな。書くかどうかはともかく。

タグ
© 2001-2009 Chisa YOUZAKA. Some rights reserved.